中山安兵衛(のちの 堀部安兵衛 ) の足跡を 歩いてみた。
人生で2度も歴史に名を残した 堀部安兵衛。彼は 新潟県新発田市の出身だそうです。新発田藩から 浪人となって 江戸へ流れ着いた。
ひょんな事から 堀部安兵衛の足跡を歩いてみることになった。

なんと 堀部安兵衛の顕彰碑があった。
文字は逆光で 読めなかった。
説明文によると 明治43年に 「旧 高田馬場の決闘」の地に この碑が建てられたそうです。
現在 この碑は 馬場先門から いくらか坂を下ったところの 水稲荷神社の参道に 移設されている。
実は こんな碑があるとは知らずに決闘の行われた 「高田馬場」を探してたどり着きました。
お隣の 甘泉園の図を 南北逆に回しましたが この地図で 左上角 環状4号線に面したところに 堀部安兵衛の碑があるのです。
※ 甘泉園は 徳川家康の側室 高田君(茶亜局 ) のお住まいだったそうです!
この地図と合わせました。
実は 決闘の行われた「高田馬場」は この場所にありました。西早稲田3丁目 1番 12番 13番の 早稲田通りに面した細長い部分が 「高田馬場」でした。
当時 この広い早稲田通りはなくて 西早稲田3丁目 1 12 13の下の細い道が 江戸時代の 本通りだったそうです。
ちなみに 穴八幡で 今も大事にされている 流鏑馬は こちら 旧 高田馬場で 行われていたらしいです。
早稲田通りなら こちら 右側正面の「八幡寿司」から先なら細長く 高田馬場が ありました。
裏通りでは この うなぎ屋さんから 
この左の1階が駐車場の建物までの部分だそうで その白い車の停まっている当たりに 先ほどの 堀部安兵衛の碑が 昭和の40年代くらいまで 置かれていたそうです。
この辺りにお住まいの方も ほとんど知らないようです。そうです 今NHK朝の連続テレビ小説「 ひょっこ」と同じ頃 東京オリンピックの終わった頃に この地から 石碑は 移動されているので 約50年前 無理もありません。

さて 中山安兵衛は 助太刀のため 走ってきた(? ) とのことですが こちらへ来る途中 早稲田の 小倉屋酒店で 日本酒を 一杯ひっかけたそうです。
小倉屋酒店は 現在もありました。早稲田通りと夏目坂の角です。地元の方の話しでは ほんの数年前まで 堀部安兵衛が飲んだ升が お店に飾られていたそうです。現在は 升のこれ以上劣化を避けるため 某金融機関の金庫に保管されているそうです。

穴八幡の 現在では 緩やかになった坂も ひょっとして もう少し急坂だったのでは と思われます。

高田馬場の助太刀では 中山安兵衛が討ち果たしたのは3人だそうです。
この活躍によって 赤穂藩の堀部家から 請われて 養子になって その先 赤穂浪士となるのです。

※  ※ 

そして その当時 中山安兵衛が どこから走ってきたのか? が 気になりました。
人によっては 神田から という人もいますが 神田からは 九段坂もあるし、如何にも遠過ぎます。
中山安兵衛は 元禄初め 江戸は 牛込元天竜寺竹町(現在の新宿区納戸町  牛込第三中学向い角地)に住み込みました。こちらのお宅から 高田馬場の決闘 助太刀に出向いたようです。
納戸町なら 大江戸線牛込神楽坂駅のすぐ近くで 早稲田まで 走れなくありません。
牛込三中は 
向かいには 
納戸町公園がありましたが 他の方(クーデンホーフ光子さん )の史跡とだけあって 中山安兵衛とは書かれていません。
想像するには この写真の右角の 1階が駐車場の建物の辺りが 中山安兵衛のお宅だったようですが やはり 地元の方でも知らないようです。

繋がりました。現在の 納戸町から 西早稲田3丁目までの 約1.5kmを 中山安兵衛は 走ったのです。

たまたまでしたが 
堀部安兵衛となってからの 次の大事件の場所も 最近見つけました。
「堀部安兵衛 道場跡」です。
単なる 児童公園ですが、最近2016年2月リニューアルされて 「安兵衛公園」という名前が 付け加えられました。
場所は 赤穂浪士の吉良邸討ち入りの時の 3つの待ち合わせ場所の一つでもありました。墨田区立川3-15-6 立川第二児童公園 です。
ここからなら 吉良邸まで 5分くらいで 行かれそうです。

さて ついでながら 
吉良邸討ち入りで 堀部安兵衛は 思ったほどの活躍を見せていません。
剣豪なのに!
実は 吉良邸裏門の主力部隊に 堀部安兵衛は 抜擢されていましたが、吉良邸裏門の外を担当していた 「不破数右衛門」が 持ち場を離れ 裏門突撃に混ざって 華麗なる戦果を持っていかれたそうなのです。
戦前には 不破数右衛門が 有名で 映画も 7本も作られているそうです!
( トリビア!   蛇足でした )